ロッキード事件の捜査について

三木武夫首相はチャーチ委員会での証言内容と世論の
沸騰を受けて捜査の開始を指示し、
同時にアメリカのジェラルド・フォード大統領に対して
捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に
対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、三木首相直々による捜査開始の指示を受けて、
2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、
東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、
同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による
合同捜査態勢が敷かれた。

捜査を指揮した伊藤栄樹東京地方検察庁検事(のち検事総長)
の証人喚問での答弁
「まず初めに“5億円ありき”とご承知願いたい」は有名になった。

捜査の開始を受けて、マスコミによる報道も過熱の一途をたどり、
それに合わせて国内外からの事件の進展に対する
関心も増大したものの、明らかにライバルの田中前首相を
ターゲットにした捜査の急激な進展は、
親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎自民党副総裁を中心とした自民党内の
反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を
「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と
椎名が会談し三木退陣を合意するなど、
いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、
福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に
与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。

国民やマスコミはこのような動きに対して
「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、
このような声を尻目に田中前首相や椎名、大平や
福田などの多数派は結束を強めていった。

なお、三木首相はその後異例のスピードで政敵である
田中前首相を7月27日に起訴、逮捕に持ち込んだものの、
田中前首相の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」
とみなした田中派からは、三木首相とともに田中前首相に
対する捜査を推し進めた中曽根派出身の稲葉修法務大臣と
共に激しい攻撃の対象となった。


福田赳夫は、この逮捕により、
「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、
田中前首相の逮捕から1カ月足らずの8月24日には
反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。

三木は9月に内閣改造を行ったが、
ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、
三木首相も田中前首相との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木首相は党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、
戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎える。

1976年12月5日に行われた第34回衆議院議員総選挙では、
ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど
事実上敗北し、三木首相は敗北の責任を取って
首相を辞任することを余儀なくされ、
後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの
福田赳夫が就くことになった。

なお、この選挙において田中前首相はこれまでどおりに
新潟3区から出馬し、地元有権者からの圧倒的な
支持を得て168,522票を獲得しトップ当選を果たした。

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、
ロッキード事件を追っていた日本経済新聞の記者の
高松康雄(1976年2月14日死亡)や上記の福田太郎
(1976年6月9日死亡)、さらに田中角栄の
運転手の笠原正則(1976年8月2日死亡)など、
複数の事件関係者が立て続けに急死したことが
マスコミの間で「証拠隠滅のために
暗殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

なお、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において、
社会党の秦豊参議院議員より警察庁刑事局の柳館栄に対して
福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の
必要性について質問が行われたが、
「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから
特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかったばかりか、
その翌月には上記のように福田が死亡するなど、
関係人物の身辺保護の必要性が問われたにも
かかわらず警察は具体的な動きを行わなかった。