ロッキード事件裁判について

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中前首相や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。


田中前首相

田中前首相は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中前首相に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中前首相はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

なお、田中前首相は下級審有罪判決後も衆議院議員を辞任せず、その後の選挙でも地元新潟の有権者が田中前首相を国会に送り続けたことや、いわゆる田中派が長らく自由民主党内での最大派閥の座を維持したことから、「闇将軍」などと呼ばれ、1982年11月の中曽根康弘内閣の発足に影響力を与えたほか、1987年に発生したいわゆる「皇民党事件」(田中前首相の有罪判決後に袂を分かった竹下登経世会会長に対する嫌がらせを止めるために暴力団が関与した事件)にその名が取りざたされるなど、その後も政界に大きな影響力を維持した。


田中前首相秘書

田中前首相の秘書官の榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。その後夫人の三恵子が「榎本が5億円の受領を認める発言をしていた」と法廷で証言した(所謂「蜂の一刺し」証言)ことなどを受け、1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決を受けた。司法は秘書の最終審判決という形で田中前首相の5億円収受を認定した。


橋本元運輸相と佐藤衆院議員

橋本登美三郎元運輸大臣と佐藤孝行衆議院議員も1976年8月に相次いで東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕、起訴されその後2人とも有罪判決を受けた。なお逮捕後に橋本は自民党を離党し、1980年に落選して政界から引退した。


児玉誉士夫

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に小型機で児玉の豪邸に自爆攻撃を行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年1月に死亡した。


小佐野賢治

小佐野は、1976年2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年10月に小佐野が死亡したために被告死亡により控訴棄却となった。


「全日空ルート」

「全日空ルート」の贈賄側とみなされた若狭が1976年7月に外為法違反容疑および議院証言法違反により逮捕、起訴された他、その前後にも副社長の渡辺以下多数の社員が芋づる式に逮捕、起訴された。この様に部下の多くが逮捕され、自身も刑事被告人の立場であるにもかかわらず若狭は同年に全日空会長に就任し、社内だけでなく株主やマスコミからも大きく批判された。しかし全日空及び若狭はこれを無視し続け、その後1991年(平成3年)には名誉会長に就任した。

翌1992年(平成4年)9月に最高裁判所は若狭に対し懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下したものの、続けて会長の座に居座り続けた挙句、1996年(平成8年)に日本航空協会会長に就任し、その後も「航空業界のドン」として君臨しつづける土台を作った。その上、翌1997年(平成9年)には当時の全日空の社長である普勝清治の後継をめぐり社内抗争を展開するが、社内外から多くの批判を浴びたことを受けて相談役に退き、2005年に死亡した。


「丸紅ルート」

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広は1976年7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定されたものの、高齢のため執行停止となり、収監されないまま2000年に死去した。この間も1985年から1999年まで丸紅名誉顧問を務めた。

なお、2000年代に入り他の被告も次々と病死し、2007年現在生存する元被告は榎本、佐藤孝行、太刀川恒夫の3人のみとなった。