小佐野賢治

小佐野 賢治(おさの けんじ、1917年2月15日 - 1986年10月27日)は、
国際興業バスで有名な国際興業創業者。

昭和の政商」「死の商人」と呼ばれ、田中角栄からは「刎頸の友」と呼ばれた。

若くして前頭髪が殆ど抜け落ちていたこともあり、20歳代で50歳代に間違われるほど老けて見えたという。

学歴こそ無いものの物静かで物腰の軟らかい紳士であり、滅多に感情を表さなかったといわれる。

しかし、小佐野がメディアへの露出を極端に嫌ったこととから、闇の世界と政界(特に田中角栄)の関わりばかりが誇張され、誤ったイメージが植えつけられている。

山梨交通を始め数多くの倒産寸前の会社を立て直し、かつ「人切り」をしない事業家としての評価は高い。

その手法として主なものは現場に入り込こんで問題点を洗い出すこと、不採算部門の大胆な整理といわれる。

しかしそれの使い分けに彼の経営者としての直感が生かされており、その点に関し研究する価値が高い。

自身の生い立ちに対するコンプレックスを持っていたといわれる小佐野にとって良家の子女との婚姻は念願だったといわれている。なお堀田伯爵令嬢の英子夫人との間に子供はない。

戦後間もない頃からハワイの観光資産価値を見出し、ワイキキのモアナ・サーフライダー等、ハワイのホテルのオーナーとなった。

国内有名ホテルも買収していたこともあり「ホテル王」などと揶揄された時期もある。

このハワイのホテル買収は、小佐野自身の資産を売却せずさらに外為法により国外への円の持ち出しが制限されていた時期にどう行ったのか今もって不明である。某都市銀行や管理局の高官の関与を示唆する噂もある。

日本航空および全日空の大株主となり航空業界への進出を狙っていたといわれるが、ロッキード事件の発覚により頓挫したといわれる。

1976年、ロッキード事件により衆議院予算委員会にて証人喚問されたとき、ここで小佐野が何度も口にした「記憶にございません」は、この年の流行語となった。

絶頂期に箱根のゴルフ場でゴルフをしている時に「あのバンカー、潰せ」と言ったら、後日バンカーが無くなっていた。バンカーの配置が一般客に取っては難しく、観光地のゴルフ場にはふさわしくないと判断しての物だった。

小佐野は大のビール好きであり、朝日新聞社の書籍には、東京の高級ふぐ料理店「ふく源」はふぐさしの味を損なわないために食べ終わるまで日本酒以外は飲ませない決まりだったが、小佐野は強引にビールを持ってこさせた。

この後小佐野の予約の申し込みが5、6回あったが同店舗は全て断ったという。

最晩年、昭和の再建王と称される坪内寿夫に、自らが保有する造船会社(三重造船)の再建を依頼し、具体的なことまで決まり、あとは契約だけのところまできていたが、咄嗟の判断で坪内が手を引いた。

それを聞いた小佐野は「私は約束を守ったのに、彼は裏切った。」と激怒し、手を打とうとするが、その直後の発作が原因で死去した。

華族出身の妻・小佐野英子は、ジャニーズ事務所の後見人としても知られ、事務所に巨額の融資をし続けていた。